東京のお盆が過ぎました。もう少しで皆さんのお盆ですね。この時期になるといつも父を思い出します。
今回は、私の父の紹介をし、医療における終末期の考え方や子を持つ親のあり方について考えたいと思います。
父からの教え
「自分の寝床で死なせてくれ・・」。病気が発覚し人生の最後を感じ取ったのか、20年前の4月、ふと父が私にもらした言葉でした。
昭和一ケタ生まれで、自分に厳しくそして他人に優しい真面目で筋のとおった人でした。戦時中は食うや食わずの生活を強いられましたが、その後、東北大工学部金属工学科へ進学。特殊鋼の知識と技術を習得し、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの鉄鋼会社に就職しました。昭和51年には、会社の吸収合併のため左遷されましたが、それでもクビになった同期よりはましと仕事に邁進し、5年後には本社の管理職に返り咲きました。特殊な知識と技術があったからリストラされなかったと言い、「手に技術を持て」が口癖でした。私が開業した今でも継続して手術をしているのは、このときの父の教えの影響があります。
私が研修医時代、地方の病院で仕事をしたときに、当直は月20回、手当ては月8万円という暮らしの中、夜中に患者さんの急変があって慌てて処置をしながら先輩医師へ連絡するも応答がなく、責任を擦りつけられる日々が続いていました。そんな心身ともに疲労困憊し落ち込んでいたときに、父から「今の君の立場はとにかく技術を身につけて、なんでも自分でできるように努力することだ。研修医制度の問題は種々あるようだが、皆が通ったステップだ。自分が上の立場になったらできるだけのことを部下の研修医にしてやりなさい」という手紙をもらいました。今でも机の引き出しに大事にしまってあり、たまに読み返しています。
家族による看病
結婚し、ほどなく妻が妊娠し、出産に父も立ち会わないかと電話をした4月のとある日、「なんだかお腹の調子が悪いから病院に行ってくる」と言われました。私はとても嫌な予感がしました。実は祖父が胃がんで亡くなっているのです。病院に父を連れていき、私の目の前で胃カメラが行われました。耳鼻咽喉科医である私にもはっきりとわかる愕然とする映像が映し出されました。結果は胃がん・・・。しかも、肝臓や肺へも転移がある末期がんでした。帰宅してから母と私とで父へ病状を包み隠さず説明しました。一瞬言葉に詰まった父の口からようやく出た一言が冒頭の言葉でした。さらに「痛みを伴うことは一切受けたくない、自宅で死ねれば本望だ」と・・。
この日を境に母が担当看護師、私が主治医、妻が助手という在宅医療チームができ上がりました。まもなく食事がのどを通らなくなり、見る見るやせ細っていき、ほぼ寝たきりとなり、下血も繰り返され、発熱が続きました。当時の私は大学病院の診療で忙しくしていましたが、早朝と夜遅くに父のもとへ行くようにしました。「今日もヤブ医者がやってきましたよ」と私が言うと、父はにこにこして「敏朗大先生ありがとう」と声にならぬ言葉で励ましてくれました。「患者に励まされるようじゃあ話にならないね」と皆で笑いました。
この年(平成9年)の7月、私には長女が誕生しました。とても嬉しかったです。父に一刻も早く会わせようと、生まれた翌日に連れて行くと、「山西家の太陽だ!」と言って、起き上がって抱きしめてくれました。しかし、この日を最後に2度と起き上がることはできなくなりました。その約1ヵ月後の8月20日、父は希望どおり自分の寝床で息をひきとりました。享年64歳。母と2人で死亡確認をし、あらためて顔も体も1/3くらいになってしまった父の頬にキスをしました。あれだけ厳しい闘病生活だったのに、その顔はとても穏やかで、いまにも「敏朗大先生来てくださったか」と言ってくれるようでした。
人生の終末
医療界では、人生の終末をどこで迎えるかが話題になっています。“病院で死ぬ”ということと、“我が家で死ぬ”ということ、それぞれに意味があると思います。いずれを選択したとしても「生きている」のか「生かされている」のかが重要だと思います。誤解を恐れずに言えば、大学病院では「生かされている」状態の患者さんをたいへん多く診てきました。父は終末の場として自宅を選択しました。そして死を迎える前日の夜まで、細々とではあっても笑って会話ができました。死を冷静に受け止め、終末期を生きて逝きました。本人の希望通り自宅で看取られました。自分に厳しく他人に優しい父の、唯一のわがままを聞いてあげることができましたが、これが最後の親孝行になってしまいました。
親から子へ伝えるものは
最近、未成年者の犯罪が頻繁に紙面をにぎわせています。子どもには責任能力はないといわれます。ということは、言い方を変えれば親が悪いということになります。
毎日の診療をしていると、たくさんの子どもたちが外来にやってきます。こちらから「おはよう!」「こんにちは!」と挨拶をしてもヘラヘラ笑っている子や、無視をする子、アイフォンやポータブルゲームに興じている子がいます。そしてその横には、挨拶もろくにできないわが子を見ても、叱るそぶりすら見せない親がいます。昔なら、そんな子どもたちの親父代わりに耳鼻科医がゲンコツをプレゼントしたものだと聞きます。その子のことを思えば、私もそうしてやりたいと思うときがあります。しかし今のご時世、そんなことできるはずもありません。すぐに暴力沙汰、障害沙汰と告訴されてしまうでしょう。
私には娘が3人います。とても優しく愛らしい娘たちです。父親として子どもたちにどのような背中を見せられるのか、今は分かりませんし、娘たちも父親の背中なんて考えてもいないでしょう。「親父だったらこんなときどうしたんだろう?」「親父に相談したら何て言うかな?」といつも自問自答している自分がいます。せめて自分の娘たちにだけは、恥ずかしくない親父の背中が見せられるようにしたいと思っています。
(このessayは、都耳鼻会報第126号2008年8月『親父の背中』及び、安全と健康2009年12月号“知ってるつもり?体の不思議”『親父の背中~我が家で死ぬということ』に掲載されたものを一部改訂しました)